2005年07月19日
立志塾連休だより~炎のストライカーゴン中山~

~6対0の楽勝でした~
つかの間の夏休み。久しぶりに生でサッカーを見てきました。僕にしては珍しく今年に入って初の観戦です。場所はジュビロスタジアム。東京ヴェルディ対ジュビロ磐田の一戦です。結果は6対0でジュビロの楽勝。蒸し暑さを吹き飛ばす素晴らしい試合でした。僕は愛知県人でありながら、グランパスには全く興味がなく、ジュビロファンです。というよりも一人のストライカーのファンです。そのストライカーこそゴン中山こと中山雅史選手です。彼は今年で38才になりますが、今も現役バリバリの選手です。昨日の試合でも大量点の引き金となる先制点を叩き出しました。
僕が彼に注目するようになったのは、たしか1993年頃です。まだサッカーがメジャーなスポーツでなかった当時(昨日の塚越先生と同じく僕も翼世代ですが、空前のサッカーブームもみんなが見ていたのはプラティニやマラドーナそして現役時代のジーコなど海外サッカーばかりで、日本リーグは全くと言っていいほど客は入っていませんでした。その証拠に現在のナビスコカップの前身にあたる1985年のJSLカップの準決勝・決勝はなんと豊橋の岩田運動公園で行われ、決勝は日産対読売クラブという黄金カードにもかかわらず4000人程度の観客しか入りませんでした。ラモスや木村、水沼、松木、金田、ジョージ与那城などそうそうたる面子だったのを今でも覚えています。小学生の入場料はなんと100円!でした。脚注が長くなりました。本題に戻りましょう)常に日本代表の試合でスーパーサブとして後半途中から出場し貴重な得点を決めていたのが中山選手でした。インタビューの受け答えも面白く、華のある選手でした。特に思い出すのは1993年のアメリカW杯最終予選のイラン戦です。(あのドーハの悲劇と呼ばれる10月28日はイラク戦です。)日本は初戦でサウジアラビアと引き分け、是が非でも勝ち点の欲しい試合で2対0と劣勢でした。例のごとく後半から中山が投入されましたが、流れは全く変わらず、このまま負けだなと誰もが思った時でした。ロスタイムに入り、力のないロングボールがイラン陣内に蹴られ、そのままタッチを割るかと思うボールに猛然とダッシュしラインギリギリで中山は追いつきました。その後スッと立ち上がり角度のないところから思い切ってシュートを打ったのです。虚を疲れたキーパーはセーブすることができずゴールイン。そのボールをすぐさま取りに行き、ダッシュでセンターサークルまで持っていくときの形相はまさしく炎のストライカーにふさわしいものでした。結局2-1でその試合は負けてしまいましたが、その後日本は息を吹き返し、最終戦に勝てばW杯出場というところまでいったのです。(結局あのドーハの悲劇で本大会出場はならずでしたが…)
その後の彼は98年のフランスW杯の第3代表決定戦で先制点をあげ、本大会では日本人として初のゴールを記録し、(なんとそのゴールの直前に彼は足を骨折していたのにもかかわらずです。)2002年の日韓W杯には日本の10番を背負って(自分では参加国中の10番で最も下手だななんて言ってましたが)日本の決勝トーナメント進出に貢献しました。またJリーグの得点王や最速ハットトリックのギネス記録など、記録にも記憶にも残る選手として今に至っています。彼の最大の魅力はそのひたむきさにあります。自分でも言っていたように、技術的にはもっとうまい選手はたくさんいます。しかし、普段の練習の取り組み方や、試合中にボールを追う姿勢、そして何よりもゴールを奪おうとする執念など、見ている僕らに感動を与え、そして何か人として大切なものをいつも教えてくれます。今はドイツで活躍している高原選手も磐田時代にツートップを組んだ中山選手を尊敬しているそうです。また若い前田やカレンなどにもいい影響を与えていることでしょう。僕は途中であきらめる選手は嫌いです。また汚い手法を使う選手も好きになれません。そしてそれは勉強を教えていてもそう思います。一生懸命取り組む子が好きです。あきらめない姿勢を見せてくれる子を最後まで応援します。学問に王道なしです。姑息な手法は通用しません。ぜひみなさんもゴン中山のように、ひたむきに一生懸命がんばって欲しいと思います。結局サッカー見てても塾のことを考えてしまう、やっぱり遺伝子は僕も塾講師です。(スタメンで中山選手の名前を聞いた瞬間、不覚にも涙が出た金田でした。)
Posted by 立志塾
at 00:21
│金田