2012年05月28日

想い、生きる 〔中村〕

  先日、妻の親族の葬儀に参列した。
 





 残された者たちは、その現実を静かに受け入れ、御霊(みたま)とその功労に感謝し、粛々と送り出す。


 血の繋がりのない私は、血縁の観点からすれば部外者である。


 さりとて、齢を重ねるたび、或いはこういった場に足を運ぶたび、仏教でいうところの因縁生起を感ぜずにはいられない。


 妻の血縁があってこそ、現在の私と家族、またその人生、命がある。


 遺影を前に、低頭し、敬服し、恐れ多くも墓地への葬列を成す一員に加わらせて頂いた。







 死は性別、人種、貧富貴賤を問わず全ての者に訪れる。


 産まれ出ることは奇跡的な確率によるが、死はこの世の必定である。


 突飛な表現かも知れないが、例外なく起こり得る現象という意味で言えば、それは決して不幸なことではない。庭先の花が咲き、その後朽ちることと本質は変わらない。


 こう書くと、“中村は冷淡な奴だ”との誤解を招きそうだ。


 勿論、死を受け止めることは辛く、悲しい。


 しかし、


 傍らに寄り添う家族の温かさにあふれた葬儀であれば、それは人生最後の祭礼となる。


 今回の葬儀の様子を見ていてそう感じた。






 そこは、およそ悲愴などという言葉は似つかわしくない空間であった。


 色とりどりの花々、親族、そして故人との関わりが深かった地元の皆さんの穏やかな表情。


 それらはそのまま、家族間の強固な絆、地域の懐の大きさを表していた。


 彼らに囲まれ、柔らかな陽射しの下に送り出される故人は幸福だと思った。






 人は大切な他人(ひと)を想いながら生きている。


 その念は肉体が滅んでも失われるものではない。


 “人間は、何のために生きているのか?”


 私がこの哲学的な問いにつかまったのが高校生の時。


 現在までその答えは見つかっていないが、


 命を繋ぎ、世代を繋ぎ、連綿と愛する者への想いを繋いで我々は生きているのだと、


 建立された墓碑を前にして、


 私は一筋の光にたどり着く手掛かりを得たような気がした。  


Posted by 立志塾  at 00:02Comments(1)中村


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